小説文学の春夏秋冬 ら行記事一覧

もう昔となった。その頃、雑司ヶ谷の墓地を散歩した時分に、歩みを行路病者の墓の前にとゞめて、瞑想したのである。名も知れない人の小さな墓標が、夏草の繁った一隅に、朽ちかゝった頭を見せていた。あたりは、終日、しめっぽく、虫が細々とした声で鳴いている。そして、たゞ、こゝにも世上の喧轟を他にして、月日が流れていることを思わせたのであった。 思うに、ある年のある日、旅人は、夕日に彩られた街を喘《あえ》ぎながら...
 横須賀にゐる妹(彼の妻の)のところで、当分彼の息子をあづかりたいと云つて寄越したのである。子供のない慎ましい夫婦暮しで、文学の本ばかり読んでゐる妹であつた。彼の息子は、彼が転地療養をすることになつたが、学校の都合で東京の親戚にのこつてゐた。「トモ子のところなら安心だわ。トモ子はだらしがないけれど、ひとのことには親切だし、それに朝雄さんが責任の強い人だし。」 と彼の妻は落着いてゐた。 彼は半年ばか...
昨日、宵の内から降り出したしめやかな秋雨が、今日も硝子戸の外にけぶつてゐる。F――川の川音も高い。町を挾んだ丘の斜面の黄ばんだ木の葉の色も急に濃くなつたやうだ。J――峠から海の方へ展がる山坡に沿うて、雨を含んだ灰色の雲が躍るやうに千切れては飛び、飛んでは千切れて行く。海の沖には風が騷いでゐるのかも知れない。とに角私が此處へ來てから暗い空模樣が今日で五日も續いてゐるのだ。著いた日の夜出した繪葉書はも...

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