エミイル・ゾラの文学方法論

文学の方法論的研究が、近頃やうやく一部の人々の注意を、惹くやうになつて来た。このことは相当長期に亘る停滞時代を経てきた文学批評界に、恐らく劃時代的の活発な論議をまき起すやうになるだらう。片上伸氏は、既に二回までもこの問題について論議された。私はまだ遺憾ながら同氏の論文を読んでゐないが、伝へ聞くところによると同氏の論文は、マルクス主義的、即ち弁証法的唯物論の立場からなされた、堂々たる述作であるといふことである。
 私も「社会問題講座」の一講座で、簡単にこの問題を論じたことがある。けれども、実を言へば、私は、この問題で独自の体系を述べるやうな程度の研究はまだ積んでゐないし、従つて、何等自信のない研究を急いで発表することは躊躇する。私はたゞ、種々の理由によりて、文芸作品は科学的研究の対象になり得るものであるといふこと、換言すれば文芸学(Literaturwissenschaft, Science of Literature[#「Literature」は底本では「Iiterature」])なるものが存在し得ること、そして、さういふ方面への研究が、今後の文芸批評家の重要な一つの任務であることを信ずるのみである。
 文芸作品を享楽し、鑑賞することのみが批評家の任務であると考へる人は、園芸家のほかに植物学者のあることを知らぬ人である。否園芸家にでも、通俗な植物学の知識は必要である。それがなければ花をたのしむことすら十分にできはしない。花が植物の生殖の器官であることを知つたゝめに花の美しさは減殺されるどころではなくて、却つて、そこに造花の至妙を私たちは感得して驚歎するであらう。
 ハクスレーが、アルプス山は地殻の冷却による収縮によりて生じたものであるといふ地質学の真理は、アルプス山に対する登山者の崇高の念を少しも減殺するものでないと言つたのは至言である。
 文学に就いてもそれと同じであつて、私たちは、文学作品を享楽し、鑑賞することはできるが、そのほかに、それが発生する根拠、それが進化してゆく様態を、科学的に研究し、理解しようと努力することも決して排斥すべきことではなくて、むしろ、その方が重要な位である。ところが最近では、さういふ方面の研究に一歩でもはいらうとすると、彼れは文学がわからないのだときめられてしまうのである。
 勿論鑑賞的批評も重要であるし、それも今の日本にはかけてゐる。私は、みだりに過去を追慕する人にはくみしない。過去は、個人について言つても、どんなに苦しい、醜い過去でも、たゞ過去であるがためになつかしまれるものである。過去を考へる場合ほど、私たちに冷静な厳正な判断の必要であることはない。それにもかゝはらず、私は、最近の批評が一向進歩してゐないといふ説、むしろ退歩してゐるといふ説には一面の真理があることを否定し得ないのである。
 こゝでは、私は専ら、文学の方法論的研究に注目することにしよう。そして過去の人たちが、この方面でどれだけの業績をのこしたかを見逃さないために、この方面に於ける最も偉大なる一人である、エミイル・ゾラの説を紹介しようと思ふ。それは、近代の文学研究の方法に決定的な基礎を与へたものはナチユラリズムであるにかゝはらず、ナチユラリズムの文学理論は、日本には、まだまとまつて紹介されてゐないと思ふからである。私たちは、ナチユラリズムの本質に触れないで、たゞその外貌だけを眺めて通つて来た観があるからである。以下に述べるところのゾラの説は、今では私たちを全く説得するに足る力をもつていないであらう。(さうでないならば私たちの恥辱である!)けれども、極めてイージーにナチユラリズムを卒業して来たと考へてゐる人たちの考へる程、それは鎧袖一触の値しかないものだらうか?

 

         一

 

 エミイル・ゾラは、有名な「実験小説論」の冒頭で次のやうにことはつてゐる。
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『実験方法なるものは、クロオド・ベルナアルによりて、「実験医学研究序論」の中で、しつかりと、且つ驚くほどはつきりと確立されてゐるのだから、私はこゝではたゞそれを応用しさへすればよいのだ。この決定的な権威ある学者の著書が、私の議論の堅牢な基礎にならんとしてゐるのだ。この書物の中には凡ての問題が取り扱はれてゐるから、私は、たゞその中から必要なる部分を抜粋して、それを否む能はざる論拠としてゆけばよいのだ……大抵の場合に、この書物につかつてある「医学者」と言ふ言葉を「小説家」と言ふ言葉にかへさへすれば私の考へをはつきりさして、それに科学的真理のもつ厳密性を与へることができるのである。』
[#ここで字下げ終わり]
 しからば、クロオド・ベルナアルは、『実験医学研究序論』に於てどんなことを述べてゐるのであるかといふと、彼は、当時まで、一の技術であると思はれてゐた医学に実験的方法を適用し、これを技術から科学にかへようとしたのである。実験的方法は、従来無生物に関する学問、即ち、物理学及び化学の研究に用ゐられて偉大なる成果をあげてゐたのであるが、クロオド・ベルナアルは、その方法は無生物の研究のみならず、生物の研究、即ち生理学及び医学にも適用さるべきものであるとして、これを無生物の研究から生物の研究へ拡大したのである。
 エミイル・ゾラがなしたことは、実験的方法の適用範囲を更に一歩拡大したことにほかならぬのである。彼自身は、それを次の如く言ひ表はしてゐる。
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『若し実験的方法によつて肉体生活に関する知識が得られるならば、それによつて情的及び知的生活の知識も得られるに相違ない。化学から生理学へ、生理学から人類学及び社会学へと進んでゆくのは方向の相違ではなくて程度の相違に過ぎない。而してその進路の末端に位するのが実験小説である。』
[#ここで字下げ終わり]
 クロオド・ベルナアルは如何なる論拠に立つて、無生物の研究に用ひられる実験的方法を生物の研究にまで適用しようとするのであるか?
 生物と無生物との相違は、彼によれば前者は自発性 〔Spontane'ite'〕 をもつてゐるといふ点にある。無生物は、普通の外部的環境の中に存在するものであるが、生物体の各要素は所謂内部的環境の中に存在するといふことが両者間の唯一の区別点である。外部環境とは、物理化学がその研究の対象とする環境である。けれども、内部環境も亦物理化学的性質を有し、そこに起る生理現象は、物理化学現象に還元することができる。そこで、外部環境も、内部環境も換言すれば生物界の現象も無生物界の現象も、ひとしく因果関係によりて決定されてゐるといふことになる。それ故に、生物の場合に於ても無生物の場合に於ても、科学的研究の目的、実験的方法の目的は、ある現象を生起せしめる直接の原因を知ること、即ちこの現象がおこるために欠くべからざる条件を明かにすることである。実験科学の目的は、物事が何故[#「何故」に傍点]起るかを知ることではなくて、如何にして[#「如何にして」に傍点]起るかを知ることである。さういふわけで、実験的方法は無生物の研究にのみ限られた方法ではなくて、生物の研究にも用ゐ得る方法であり、これを用ふることによりて、生理学及び医学は真の科学になり得ると彼は主張するのである。

 

         二

 

 従来観察といふ方法のみしか用ゐられてゐなかつたやうに見える文学に、実験的方法を用ふることが可能であらうか? これが第一に起つて来る問題である。それには、観察及び実験のといふ言葉の意味を明かにしておく必要がある。
 クロオド・ベルナアルによれば、観察とは、自然に生起するまゝの現象を研究する方法であり、実験とは、自然現象を或る目的をもつて変へてみたり、自然のまゝでは生じないやうな事情或は条件の中で、それ等の現象を起して見て、それを研究する方法である。たとへば天文学は観察の科学であり、化学は実験科学であるが如くである。換言すれば、実験方法とは、或る現象に関する私たちの解釈、推理の真偽をたしかめるためには、その現象を人為的におこして見て、それが私たちの解釈にあつてゐるか否かをしらべて見ることである。そこで科学研究は観察によりてはじまり、実験によりて完成されるといふ関係になるのである。
 ゾラによれば、文学も同様に観察と実験との科学である。観察によりて事実が与へられる。出発点が与へられる。人物が活動し、事件が展開してゆくための確乎たる地盤が与へられる。ついで、人物を活動さして、その作品に於て研究せんとする現象の因果関係が要求するとほりに事件が継起してゆくか否かを検するのが実験的方法である。ゾラは、この関係を説明するために、バルザツクの「クージーヌ・ベツト」を例にとつてゐる。そして小説といふものは、人間を一定の個人的及び社会的環境において実験した実験報告書であると論じてゐるのである。
 勿論、実験小説が人間について研究した結果は、物理学、化学等のやうな精確さをもつてはゐない。生理学ほどの精確さをすらもつてゐない。しかし、こゝでは研究の結果を論ずるのではなくて研究の方法を論じてゐるのである。実験小説が、他の先進科学に比して幼稚であるのは、それが生れてから間もないために過ぎない。即ち実験小説家が人間を研究する方法に欠陥があるからでなくて、研究の日が浅いからに他ならぬ。クロオド・ベルナアルが「実験科学者は自然の予審判事である」と言つたに対し、ゾラは「吾々小説家は人間の予審判事である」と言つてゐる。両者の研究方法は全く同じなのである。
 この方法に対して次の如く批難するものがある。「自然主義の小説家は専ら人間の写真を撮影しようとしてゐるのだ! 然るにこの写真は到底精密なものではあり得ない。芸術作品をつくるためには、どうしても事実を整理する必要がある!』
 ところが、ゾラによれば、実験的方法を小説に導入することによつて、かやうな他愛もない批難は根拠を失つてしまうのである。実験小説家は成るほどありのまゝの事実から出発する。けれどもたゞ事実を観察するだけではなくて、その事実の機構《メカニズム》を示すために、さま/″\な現象を起して見る。そしてこの現象を吟味するのである。それはもう写真ではなくて、そこには吾々の創意が加はつてゐる。吾々は小説に実験的方法を適用することによりて、自然の外に出ることなくして、自然を変更するのである。
 私たちが、或る事実を観察すると、そこに一つの意想《イデー》が生れて来る。そして、この意想が真であるか否かを疑問とするやうになる。クロオド・ベルナアルによれば、懐疑者こそ真の科学者なのである。何となれば、懐疑者は、自分自身について、自分の解釈については疑ひをもつけれども、一つの絶対的原理、即ち、現象の決定性《デテルミニスム》をかたく信じてゐる。これを信じないでは、疑問も起りはしないのである。而して、この意想、及びそれに対する懐疑、並びにそれをたしかめるための実験のしかた等は、全く個人的なものであり、そこには芸術家の創意の余地が十分に存するのである。芸術家は決して写真師ではないのである。

 

         三

 

 クロオド・ベルナアルが、生命現象の研究に実験的方法を適用する必要を主張すると、これに反対の生気論者《ヴイタリスト》は、クロオド・ベルナアルの一派を唯物論者であると批難した。これに対してクロオド・ベルナアルは次のやうに反駁してゐる。
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『生気論者たちは、生命といふものを、何物にも決定されないで、自由自在にはたらいてゐる神秘的な、超自然的な一種の力であると考へ、生命現象を一定の有機的及び理化学的条件にむすびつけて説明しようとする人々を唯物論者だと批難してゐる。これは謬つた考へであるけれども、一旦それにとりつかれると容易にそれを根絶することはできぬ。たゞ科学の進歩のみがかゝる謬想を消滅させるであらう。』
[#ここで字下げ終わり]
 然らば科学の進歩は私たちに何を示したであらうか? ゾラは、これを、 椽大の筆をふるつて次の如く要約してゐる。
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『前世紀(十八世紀をさす)に於て、実験的方法の正確なる応用によりて、化学及び物理学が生れ、この方面に於ては、不合理な超自然的な説は影をひそめた。分析のおかげによりて、物理化学的現象には一定の法則があることが発見され、様々な現象が明かにされた。ついで新しい一歩が踏み出された。今尚ほ生気論者たちが神秘的な力を認めてゐる生物体も亦、物質の一般的機構によりて説明され、それに還元せしめられた。科学は、生物体に於ても無生物体に於ても、一切の現象の存在条件は同じであることを証明し、それによりて、生理学は徐々に、化学や物理学のやうな確実性を帯びて来た。しかしそれで、進歩は停止したゞらうか? 決してさうではない。人間の肉体の機構がわかつて来ると、今度は、人間の情的及び知的のはたらきに移つてゆかねばならぬ。さうなつて来ると、私たちは、これまで哲学及び文学に属してゐた領域にはいつてゆくことになり、科学によりて、哲学者や文学者の臆測が決定的に征服されることになる。今日私たちは実験物理学及び実験化学を有してゐる。そのうちに私たちは実験生理学を有するやうになり、更に進んで実験小説を有するやうになるであらう。凡てが関連してゐるのである。私たちは、生物体の決定性を知るためには、無生物体の決定性から出発しなければならなかつた。而して、今や、クロオド・ベルナアルのやうな学者が、人体にも一定の法則がはたらいてゐるといふことを示したのであるから、私たちは、この次には思想及び感情の法則がつくられるやうになるだろうと断言しても、謬るおそれはないのである。道端の石にも人間の脳髄にも同様の決定性がはたらいてゐる筈なのである。』
[#ここで字下げ終わり]
 この時には、ゾラによれば、小説家は科学者となり、小説家のなすべき仕事は、人間の個人的及び社会的生活を分析することになつて来る。生理学者が物理学者や化学者の仕事を継承して来たやうに、小説家は生理学者の仕事を継承して、観察と実験とをしてゆくやうになる。小説家は一種の心理学をつくつて生理学を補つてゆくのである。而して、小説家が人間の性質を研究する道具は実験的方法なのである。科学的研究、実験的推理によりて、理想主義者の臆測は次々に征服され、純然たる想像によりてつくられた小説は、観察と実験との小説に代つてゆくのである。
 とは言へ、人間の科学、即ち実験小説は、まだ法則をうちたてるやうな域には達してゐない。たゞ私たちに言ひ得ることは、人間界の凡ゆる現象は絶対的決定性をもつてゐるといふことに過ぎないのである。凡そ科学完成の程度は、その科学がとりあつかふ対象の複雑さに逆比例してゐる。物理学及び化学の対象は最も単純な現象である。そこで、これ等の科学は最も厳密な法則科学となつてゐる。生理学になると、その複雑さが遥かに増して来る。従つてこの科学の発達はまだ比較的幼稚である。最後に人間の精神生活の科学即ち実験小説の取り扱ふ対象に至つては、その複雑さが更に一層甚だしい。それ故に、この科学(小説)はまだ法則を云々する域にすらも達して居らぬのである。人間科学が幼稚であるのは方法の罪でなく、対象が複雑なためである。
 エミイル・ゾラは、実験小説の神髄を次の如く要約してゐる。
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 『先づ、生理学が教へるやうに、遺伝、環境等によりて、人間の精神生活の機構を説明し、ついで、この人間を生理学者の手から引離して、社会的環境の中において見る。この社会的環境なるものは、人間自らがつくつたものであり、人間が毎日変へてゐるものであり、その中にありて人間自ら亦絶えず変化してゐるものなのである。』
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 ゾラの言はんとするところを一言で言ふならば、小説家は、生物学と社会学との両方面から人間を研究する科学者であるといふことになる。

 

         四

 

 以上は実験小説(自然主義小説)の純論理的根拠である。実験小説はもつと実際生活に密接な関係を有する役割、ゾラの言葉によれば道徳的役割 〔ro^le moral〕 をもつてゐないだらうか?
 若し、生物学及び医学が十分に発達したならば、医師は疾病の原因をすつかり知りつくして患者を完全に治癒し得るやうになるであらう。人間は完全に自然を征服して、その法則を利用し得るやうになるだらう。かゝる状態は、今日の科学者が夢想とするところであつて、これほど高貴な、これほど高尚な、これ程偉大な目的は又とあるまい。
 実験小説家の夢想するところもこれと同じである。小説家の目的も科学者の目的と同じであつて、一定の社会環境に於て、人間の知的、情的生活がどうなるかを、実験的に示すことにある。若し、他日これが、法則的に正確に知悉されるやうになつたならば、個人及び環境を変へることによりてよりよき社会状態に達することができるであらう。かくの如く高貴にして、かくの如く応用の広汎な仕事はまたとあるまい。
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『善悪を知悉し、人生、社会を統制し、遂には社会主義の全問題を解決することによりて確乎たる正義の基礎をすゑつけること、人間の一切の事業のうちで、これほど有益で、これほど道徳的な事業が又とあるだらうか?』
[#ここで字下げ終わり]
 実験小説家の役割は、これを理想主義小説家と比較することによりて一層鮮明となる。こゝで理想主義小説家といふのは、観察と実験とを無視して、超自然的な、不合理なものにその作品の基礎をおき、現象の決定性を逸脱した、神秘的な力をゆるす作家のことである。
 実験小説家の真の任務は、既知の事柄から出発して未知の事柄を探り求め自然を科学的に知悉することである。理想主義小説家は、未知なものは既知のものより美しく尊いものであるといふ馬鹿げた口実のもとに未知なものに甘んじてゐる。自然主義小説家は、如何なるものにも観察と実験とを用ふるが、理想主義小説家は分析することのできない神秘力をみとめ、未知の中に、法則の外に安住しようとする。[#「。」は底本では「、」]もとより理想《イデアル》を念とするものを理想主義者と呼ぶなら、実験小説家も亦理想主義者である。たゞこゝでは未知の世界をよろこんで、そこへ逃避せんとする者のみを理想主義者と呼ぶのである。現象の決定性を認めないものを理想主義者と呼ぶのである。
 実験小説家を宿命論者であると批難するものもある。実験小説家は、人間を、運命の鞭の下に動いてゆく家畜の群にひきさげるものであると批難するものがある。然しながら、ゾラによれば実験小説家は決定論者ではあるが、宿命論者ではない。なる程、実験小説家は自然法則の外へは出ない。自然法則の中にありて現象の生起する条件をさぐる。けれども彼等はそれだけではない。彼等は現象の決定性を変更する。例へば環境に向つてはたらきかけ、この環境をかへることができる。自由と無知とが同義語でないやうに、自然法則を知り、これを認めることは、これに盲従することを意味するものではない。宿命論と決定論とは全く別のものである。
          ×       ×       ×       ×
 エミイル・ゾラはこゝで主として小説について論じてゐる。彼は文学の他の品種についてどう考へてゐたゞらうか? 彼はこの論文の最後で次のやうに言つてゐる。
[#ここから1字下げ]
『私は実験小説についてしか論じなかつたが、実験的方法は、史学及び批評を征服し、やがて、劇及び詩をさへも征服するであらうとかたく信じてゐる。これは避くべからざる進化である。』
[#ここで字下げ終わり]
 さて、私は、ゾラの方法論を詳細に批評するつもりで、この紹介にとりかゝつたのであるが、限られた紙数と時間とのために、批評どころか、彼の説を伝へることすらも、甚だ不十分にしかできなかつた。いづれ機を見て不備な点を補ふと同時に、ゾラの文学論に含まれたる偉大な功績と、それに対する私の批判とを述べて見たいと思つてゐる。


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